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頬を伝う涙——『回転』(1961年)における「無垢」の演出についての覚書

はじめに

図1. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
白昼の下で佇む女性の幽霊。

 幽霊が何もせず、ただそこに居ること・・・・・・・・・・・・──ジャック・クレイトン監督の『回転』(1961年)は、幽霊が存在すること自体の恐ろしさを最大限に引き出した先駆的作品である。ポーリン・ケイルが「今まで見た中で最も偉大な幽霊映画」と評し*1、黒沢清が影響を受けた作品として度々言及する*2このイギリスのホラー映画は、アダプテーション、ジャンル論、セクシュアリティ等の観点から盛んに論じられてきた。しかし、本稿では『回転』のとある何気ない描写を取り上げたい。問題の場面は映画の前半、少年マイルズの寝室にて展開する。新任の女性家庭教師ミス・ギデンズが、ベッドで悲しさを漏らすマイルズに励ましの言葉をかけるのだが、そのとき彼の頬を伝う涙が、見る者をはっと驚かせるのである(図2)。二人の一連の会話は、最終的には不穏な出来事をもって終了するものの、「無垢イノセンス」が不意に湧出するこの瞬間は、恐怖の場面と比肩する強烈な印象を残している。ここからは、照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集等の技法に注目し、マイルズが涙するシーンの卓抜な演出を考察する。映像の分析を通して、『回転』の美点が恐怖の演出に留まらないことを明らかにすると共に、この涙のショットの特権性を示したい。

図2. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズが涙する特権的なショット。

『回転』の概要

 具体的な議論に入る前に、『回転』の概要を簡単に確認しておく。このイギリス映画は1898年に発表された中編小説『ねじの回転』を原作としており、1950年の舞台版の脚本を元に翻案された。監督は、長編デビュー作の『年上の女』(1959年)でアカデミー賞2部門受賞した、ジャック・クレイトン。邦題の「回転」は原作から拝借しているが、映画の原題は舞台版と同じThe Innocentsであり、その名の通り「無罪」「純真」「無垢」が重要なテーマになっている。「無垢イノセンス*3が作中、どのように扱われている/描かれているかを全編通して詳述する余裕はないが、『回転』を理解する上で手掛かりになる視点だろう。
 『回転』の主人公は、デボラ・カー扮するミス・ギデンズ。ミス・ギデンズは裕福な独身中年男性(マイケル・レッドグレイヴ)に、両親がいない甥マイルズ(マーチン・ステファンズ)と姪フローラ(パメラ・フランクリン)の家庭教師として雇われ、マイルズ、フローラ、メイドのグロース夫人(メグス・ジェンキンス)が住む古い屋敷ブライハウスで生活するようになるが、マイルズとフローラの奇妙な言動や隠し事をしている様子に対して不審な思いを募らせる。ついには男女の幽霊を目撃し始めミス・ギデンズは動揺するが、他の3人は素知らぬ風である。怪奇現象の謎を解くべく、ミス・ギデンズはブライハウスについて調べ始め、マイルズとフローラは取り憑かれると思うようになる。

図3. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
主人公の女性家庭教師ミス・ギデンズ。

 本稿が分析する場面は、ミス・ギデンズが家庭教師としてブライハウスに来て間もない頃に展開する。議論の主眼は、あくまでこの場面におけるマイルズの涙をめぐる演出であり、作品全体のテーマではないことに留意されたい。次章では、マイルズが涙を流すに至る前後の描写を細かく検討する。

寝室での会話の分析:照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集

 屋敷の中。マイルズとフローラがもう寝ているはずの時間。ミス・ギデンズがマイルズの寝室の前を通り過ぎようとしたところ、中にいるマイルズに呼び止められる。ドアを開け、中に入るミス・ギデンズ。「どうして私がそこにいると分かったの」。床が軋む音とドアの隙間から漏れる光で気づいたと、マイルズがベッドの上から答える。後ろのドアを閉め、「もう寝てないといけないよ」と返すミス・ギデンズ。ここから、2分弱に及ぶロングテイク、2人の位置関係が画面の内に変化するツーショットが開始する。ミス・ギデンズはマイルズの側に行き、持っていた蠟燭を棚の上に置く(図4)。ミス・ギデンズが部屋の中の物を片付けている間も、2人は会話し続ける。夜更かしを楽しむマイルズを軽く注意した後、ミス・ギデンズは彼が学校から退学になった件を切り出す。平気な態度を取るマイルズは、どうせおじは自分と妹フローラのことなど気に掛けていないと言う。否定しようとするが言葉に詰まりがちなミス・ギデンズに対し、マイルズは続ける。「少し悲しいけどね……人が自分のために割いてくれる時間がないときって」。ミス・ギデンズは振り向きながら「私にはある」と答え、マイルズのすぐ横に移動する。同時に、カメラはこの一連のシーンにおいて最も速いスピードでミス・ギデンズを追う。画面の右手前(ミス・ギデンズ)と左奥(マイルズ)に対置されていた両者が(図5)、相対的に平面的 フラットかつ緊密タイトなフレームに収まる(図6)。2人の距離がグッと縮まった──正確にはミス・ギデンズがグッと縮めた──という心理的印象を与える演出である。

図4. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズの側の棚に蠟燭を置いたミス・ギデンズ。

図5. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
対角線に位置するミス・ギデンズとマイルズ。奥行=距離が強調されている。

図6. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
奥行=距離が縮まったミス・ギデンズとマイルズ。

 ミス・ギデンズはマイルズを真っすぐ見つめて言う。「私には時間がある。そして私はあなたのことを大事に思っている」。ミス・ギデンズの次の台詞の途中、マイルズのクロースアップ(ミス・ギデンズのPOVショット)に切り替わる(図7)。それまでのハイコントラストな映像とは対照的に、蠟燭の灯に照らされたマイルズの顔と枕の“白”が画面を横溢し、彼の「無垢イノセンス」を印象付ける。話し続けるミス・ギデンズに対して、マイルズは顔を画面左に背ける。カメラ=ミス・ギデンズに向けられたマイルズの左頬の上を涙が伝う。ミス・ギデンズが寝室に入ったときに見せていた余裕のある表情は、もうそこにはない。マイルズの名前を呼びながら、彼の涙を手で拭き取ったミス・ギデンズは、彼の顎を優しく持ち、自分の方に顔を再び向けさせる。今度はミス・ギデンズのクロースアップ(マイルズのPOVショット)に切り替わる(図8)。「私を信じて」。
 しかし、作品全体のトーンに似つかわしくない安堵のひと時は、不吉な現象によって破られる。マイルズのクロースアップに戻って間もなく、部屋に勢いよく吹き込む夜風の音が鳴る。窓は框に打ち付けられ、蠟燭の灯りは消されてしまう。唐突な出来事に動揺を見せるミス・ギデンズに対し、マイルズが「怖がらないで。ただの風の仕業だよ」と声をかけたところで、このシーンは終わる(図9)。

図7. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズのクロースアップ(ミス・ギデンズのPOVショット)。

図8. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
ミス・ギデンズのクロースアップ(マイルズのPOVショット)。

図9. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
寝室のシーンのラストショット。蠟燭が消え、真っ暗になった寝室。

涙、あるいは「無垢イノセンス」の真正性

 上記のように、寝室での会話シーンは照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集等のテクニックを用いて、ミス・ギデンズとマイルズが心理的に接近する様子を描出している。ただし、注意しないといけないのは、最後の不穏な展開によって事態が好転する予感が打ち消されることである。実際、ミス・ギデンズはその後幽霊を目撃するようになり、マイルズに対する疑念を深めることになる。その意味で、両者の心理的接近の演出は、観客を油断させるホラー映画的な仕掛け(前振り)として機能していると言える。しかし、マイルズの涙を流すに至る描写の理解をストーリーテリングの観点に還元してしまうのは、あまりに惜しすぎる。
 原題のThe Innocentsが示す通り、「無垢イノセンス」は本作の主要なテーマであり、その象徴と見なせる涙に注目してみたい。あくまでも見なせると表現したのは、マイルズは本心から涙を流したのか、大いに疑問の余地が残るからである。“the innocents”は作中、怪しい言動をするマイルズとフローラをミス・ギデンズが形容する際に使用したフレーズである。マイルズに邪悪なところはないと擁護するグロース夫人に対し、ミス・ギデンズは言い返す。「彼が私たちを欺いているとしたら違います。彼らが私たちを欺いていたとしたら違います」。そして、グロース夫人にではなく、自分に対して言うように、“The innocents”と呟く。無垢であるはずの子供達が、無垢ではないのかもしれない──その恐ろしい可能性に今一度気づいたミス・ギデンズは戦慄する。このように、無垢という言葉はアイロニカルに使用されており、事実マイルズは完全に潔白ではないことが作中の描写で明かされる。映画の後半、マイルズによる嘘や盗みといった悪事が発覚し、ミス・ギデンズは彼を問い詰めることになる。

図10. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
“The innocents.” ──何もない空間を見つめて呟くミス・ギデンズ。

 よって、マイルズを無垢と結び付ける方が難しいとさえ言える。しかし、マイルズがミス・ギデンズを欺くために涙を流したのか否かは、涙のショットの解釈を左右する問題ではあっても、イメージとしての強度を揺るがすものではない。次章では、涙のショットがどうして寝室での会話シーンの中でも特権的なショットなのかを包括的に議論する。

視線の(不)一致、そして涙の煌めき

 前章では、寝室のシーンにおいて2人の物理的・心理的距離が変化したことを確認したが、ここでは2人の視線の(不)一致という問題系に注目したい。そのために、ミス・ギデンズとマイルズが最初に出会う場面から、涙のショットに至るまでの展開を振り返る。
 2人が直接出会うのは、列車に乗っているマイルズをミス・ギデンズとフローラが駅で迎える場面である。マイルズは列車を降りると、喜びで溢れるフローラが駆けつける。幼い兄弟はミス・ギデンズの元に走り寄る。ショット・リバースショットでマイルズとミス・ギデンズは言葉を交わすが、マイルズは年齢の割にやたら大人びている。
 駅を離れ、ブライハウスに帰る馬車に乗る3人。そこでミス・ギデンズは、学校での様子についてマイルズに尋ねる──マイルズの学校の校長から、彼が退学処分を下されたという旨の手紙がブライハウスに届いており、学校で何があったのか気になっていたのである。手紙には退学処分の理由として「彼は他の生徒にとって有害である」としか書かれていなかった。
 しかし、マイルズは何も答えず顔を背け、窓の外を見遣る(図11)。注意すべきは、フローラの「マイルズ見て!そこに湖がある」という発言は、その直前ではなく、直後になされているということである。マイルズは、フローラに促されて窓の外を見遣ったのではない。ミス・ギデンズの質問を受けて窓の外をぼんやりと眺め、フローラの発言を受けて湖に目線を合わせたのだ。つまり、マイルズはミス・ギデンズの質問、視線を意図的に拒否したのである。

図11. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
ミス・ギデンズの質問を無視して窓の外を見遣るマイルズ。

 フローラの発言に対し、マイルズは無邪気な反応を見せるが、ミス・ギデンズが話を再開すると表情が硬くなる。「学校では幸せだった?」と聞かれたマイルズはミス・ギデンズの方を振り返り、彼女に伝えたいことがあると言う。「女性家庭教師にしては美人すぎると思います」。想定とは異なる答えが返ってきたことに若干戸惑ってか、一拍してからミス・ギデンズは言い返す。「あなたはそんな噓をつくおべっか使いにしては若すぎると思います」。3人全員が笑ったところで場面が転換するが、マイルズが学校の話題を躱していることがここから分かるだろう。マイルズは、顔を背けて視線を拒否するか、視線は一致させても、表面的なやり取りで話を有耶無耶にするのである(図12)。

図12. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズと向き合っているが、肝心の質問は躱されてしまうミス・ギデンズ。

 寝室のシーンでも、視線が正当に一致しない時間が持続する。ミス・ギデンズは、常に何かをしながらマイルと会話する。お互いの視線が合うことはあっても、ミス・ギデンズの片付け作業によってその都度途切れてしまうのだ。馬車のシーンではマイルズが視線を拒否していたのに対し、今度はミス・ギデンズが視線を拒否しているように見える。おじは自分たち兄妹のことを気に掛けていないと言うマイルズを、ミス・ギデンズは否定しようとするが、ミス・ギデンズの体はマイルズの方に向いていない。一時的に向いたとしても、片付けに戻り、背中を向けるのである。ベッドの中でポジションを変えず、ミス・ギデンズから目を逸らさないマイルズに対し、ベッドの側をうろつき、マイルズと正面から向き合わないミス・ギデンズは頼りなく映る。それは、マイルズの主張──おじは自分たちを愛してくれていないという主張──を完全に否定しきれないミス・ギデンズの心境の現れだろう。

図13. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
片付け作業を「言い訳」にしているかのように、マイルズに背中を向けるミス・ギデンズ。

 そこでミス・ギデンズは、おじの愛情の存在を主張するのではなく、自身の愛情を伝えるという方法で、マイルズを安心させようとする。マイルズのすぐ横に移動し、彼を覗き込むように前のめりになったミス・ギデンズは、次のように言う。「私には時間がある。そして私はあなたのことを大事に思っている。そして学校で何か問題があったとしたら、もし私に何か伝えたいことがあったら……」。台詞の途中、マイルズは顔を画面左に背けるのだが、ミス・ギデンズは彼の顎を優しく持ち、顔の向きを正面に戻してあげる。ここで漸く、ミス・ギデンズとマイルズの視線が正当に一致する──初めて、表面的なやり取りで有耶無耶にされないアイ・コンタクトが実現したのだ。だからこそこの涙のショットは極めて特権的なのだが、最後に、涙がどのように形で画面に現れているのかを検討しなければならない。
 コマ単位で確認すると、最初のマイルズが顔を背ける前の状態だと、光の反射の関係で涙が見えにくいことが分かる(図14)。しかし、マイルズが顔を背ける動作によって、涙が明確に画面に現れるのである。涙は既に目尻から頬を伝って首筋に移動しているのだが、驚くべきことに、この涙が辿った経路、涙が描いた軌跡を伝うように、光が反射するのである(図15–16)。そして最後、完全に顔を背けた状態になって、涙の粒が煌めくのだ(図17)。ハイキー・ライティングで白く照らされるマイルズの頬とその上を伝う涙は、『回転』という誠に恐ろしい映画には似つかわしくないほど「無垢イノセント」な美しさを放っている。いや、こうした恐怖とは直接関わらない場面においても抜かりない点こそ、『回転』を傑作たらしめる所以かもしれない。

図14 ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
この時点ではマイルズの涙は見えにくい。

図15. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
目尻から数センチ先の涙で濡れている部分が露わになる。

図16. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
首筋に近い涙で濡れている部分が照らされる。

図17. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
涙の粒が最大の煌めきを見せる。

*1:ポーリン・ケイルの『回転』評のこの部分がよく引用されるが、引用元では幽霊の描写や俳優の演技に賛辞を贈る一方で、「『回転』は素晴らしい映画[a great film]ではないが、非常に良い映画[a very good one]ではある」という留保付きの評価を与えていることには注意されたい。ところで、本作の達成を「距離」(distance)というキーワードで記述しているのは、このレビューの見所である。なお、本稿で引用する文献および映画の台詞は拙訳になる。Pauline Kael, “‘The Innocents’, and What Passes for Experience,” Film Quarterly 15, no. 4 (1962): 21–36, https://doi.org/10.2307/1211186.

*2:以下のインタビューで、黒沢清は『回転』の映画としての達成について語っている。Diane Arnaud and Lili Hinstin, “Interview with Kiyoshi Kurosawa about His Double Feature Choices,“ trans. Eléonore Mahmoudian, Festival Entrevues, https://www.festival-entrevues.com/en/retrospectives/2014/double-feature-kiyoshi-kurosawa.

*3:議論の都合上、innocenceの意味の内「無垢」に絞って表記しているが、他の意味を捨象する意図はないことを理解されたい。