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対象を見捨てるカメラ──黒沢清『蛇の道』(1998年)の監禁シーンの恐ろしさ

図1. 『蛇の道』(1998年)
監禁されている大槻を見捨てるカメラ。

はじめに

 監禁されている者にとって、真に恐ろしいことは何か。暴力を振るわれること、罵声を浴びせられること、人間未満の扱いを受けること──これらは確かに屈辱的だ。対して、監禁している者に立ち去られ無視されることは、全く異なる類の体験である。身体の苦痛を訴えようが、交渉を提案しようが、その努力は疎外の絶望を強調するばかりである。宛先を失った言葉を発し続ける行為に、どれほどの信頼を置けようか。やがて力尽き、自らの境遇を受け入れてしまうだろう。

 黒沢清が監督した『蛇の道』(1998年)のとある監禁シーンは、この見捨てられるという仕打ちの恐怖を観客に追体験させる。しかし、興味深いことに、それは監禁されている男・大槻の視点から表現されているのではない。むしろ、カメラによって視覚化される、見捨てる側の視点から知覚されるのである。その主体はあくまでカメラであって、大槻を監禁している宮下(の代理としてのカメラ)ではないことに注意されたい。カメラという無機的な存在が、まるで意志を持ったかのように大槻を見捨て、その一連の過程を観客が目撃してしまうこと──これこそ件の監禁シーンの恐ろしさかもしれない(図1)。本稿では、佐々木友輔の示唆に富んだ映画論を引きつつ、大槻からトラックバックするカメラの態度(behavior)とその恐ろしさについて考察したい。

1. カメラの異様さ、あるいは自律的な態度(behavior)

 問題の監禁シーンは映画の序盤に訪れる。8歳の娘を凌辱の末に殺害された父・宮下(香川照之)は、謎の男・新島(哀川翔)の協力を得ながら、犯人に対する復讐を遂行しようとする。彼らが最初に突き止め拉致監禁したのが、ある組織の幹部・大槻(下元史朗)である。大槻は殺人への関与を一貫して否定するが、宮下は全く聞き入れず、廃工場(倉庫?)の壁に鎖で繋いだ大槻に同情の素振りを見せない。大槻が囚われの身として迎える最初の一夜に、カメラは恐ろしい挙動をする。『蛇の道』という作品全体を論じるには少なすぎる情報量だが、本稿の分析に最低限必要な手立ては講じられた。

 本題に入る前に、『蛇の道』における映像ないしカメラの異様さについて確認しておきたい。この映画は冒頭から、何気ない日常的な風景を奇妙な仕方で提示する。ファーストショットは画面奥に進む車の先頭部から見たような、いわばファントム・ライド*1的な映像で、観客は物語の主役の宮下と新島に紹介される前に、無人の映像とそれに被さる2人の会話に晒される(図2)。このシーンにおいて、同様の映像はもう二度挿入されるのだが、果たして観客はどのように受け止めるのだろうか。2人の会話が展開されている場所を伝えるための語りの手法、ひいては宮下による復讐の準備が平和な空間で進められている恐ろしさを伝えるための演出として理解するのだろうか。宮下と新島が宅配業者を装って降車し、大槻の家の門扉から正面扉まで移動する様子を収めたショットはどうだろうか。このとき、カメラは家の内部ではなく、十分に辺りを見渡せる場所でもなく、植えられている木々の隙間から2人を追う形でパンするのだが、そのカメラポジションのせいで2人は壁や葉に遮蔽されるのだ(図3、図4)。

図2. 『蛇の道』(1998年)
『蛇の道』のファーストショット。

図3. 『蛇の道』(1998年)
到着時、宮下と新島の姿は隠れてしまっている。

図4. 『蛇の道』(1998年)
車から降りても宮下と新島の全身がはっきりと映ることはない。

 上記のようにあらゆる要素を疑う身振りは自重されるべきかもしれないが、この映画が、顔の視認性を顧みない撮り方──登場人物の感情の伝達という役割に制限されていない撮り方──を度々採用していることは注目に値するだろう。例えば、宮下と新島が、拉致した大槻を車のトランクから引き出し、工場の壁に鎖で繋ぎ止めるまでのフルショットのロングテイク。必死に抵抗する大槻の切迫感は十二分に伝わるが、観客は同時に無言で身柄を拘束する宮下と新島の姿も視界に収めているのである。大槻のリアクション・ショットも間に挟まれない。これが、大槻に主観化された映像とは言い難い。カメラはただ、事の成り行きを淡々と見届けるのである。大槻が宮下の手を振り切って逃げ出そうとするとき、カメラは必至に大槻を追おうとせず、それどころか、大槻と彼を追う宮下がフレームの内から外へ抜けてしまうことを許してしまうのである。遅れた新島がゆっくりと2人の方へ歩み始めたところで、カメラはようやく思い出したかのように、新島の動きに同調する形でパンして、大槻を画面に収めようとする(図5)。

図5. 『蛇の道』(1998年)
隙を見て宮下の手を振りほどく大槻。

図6. 『蛇の道』(1998年)
画面左に逃げる大槻と彼を追う宮下。しかし、カメラは大槻の姿を追わない。

図7. 『蛇の道』(1998年)
遅れて、新島が大槻の方へ向かう。カメラは新島の動きに同調する形で、ようやく左にパンする。

図8. 『蛇の道』(1998年)
3人が画面に収まる構図に回帰する。逃走に失敗した大槻のリアクション・ショットは挿入されない。

図9. 『蛇の道』(1998年)
大槻を壁際に運んだ宮下と新島。逃走の試み、失敗、拘束の過程は、淡々としたワンショットの内に収められている。

 そして宮下は、身動きの取れなくなった大槻の前にモニターを運び、亡き娘の映像を見せつけながら、彼女の死体検案書を読み上げる(この時点で新島は工場の外に出ている)。読んでいる途中で、宮下とを収めたニーショットから、扉の外から宮下と新島(新島の体はモニターによって半分隠れている)を収めた超ロングショットに切り替わる。これをショットAと呼ぶことにする(図10)。2人の顔は遠くて、その表情は見え辛い。怒りが抑えきれなくなった宮下が拳銃を手に取り、大槻に向けて発砲しようとしたところを、新島は扉付近から駆け付けて制止する。それに合わせ、カメラは数メートル程画面奥にドリーインする(図11)。新島が脅しの一発を打つと、「そろそろ帰るわ」と宮下に告げる。扉の方へ歩いて戻る新島に宮下が付いて来るのだが、そのときカメラは律儀にドリーアウトする。2人が通るスペースを確保するためという現実的な理由からこのカメラワークは説明できる。しかし、物語世界内に存在せず、登場人物に干渉しないはずの記録装置であるカメラは、やや関心を寄せるかのように宮下たちの方に近づき、宮下と新島に道を開けるかのように後退するという、自律的な態度(behavior)を見せていると言えはしないだろうか(図13)。本章で取り上げたファーストショット、木々の隙間からのショット、大槻を改めて拘束するショットは、いずれもカメラの自律性と関わる映像である。カメラは、登場人物の感情との同期や、観客の視線の欲望──注意・関心を引く対象を視界に収めたいという欲望*2──の充足を主目的としていない。登場人物とも、観客とも異なる原理で、カメラは自律的に行動しているのである。顔の視認性の低さの所以をこのような仮説で説明した場合、監禁シーンの恐ろしさはどのように記述できるのだろうか。

図10. 『蛇の道』(1998年):ショットA
宮下が大槻を追い詰める様子を捉えた超ロングショット。

図11. 『蛇の道』(1998年):ショットA
新島が宮下を制止するところにカメラがドリーインする。

図12.『蛇の道』(1998年):ショットA
ドリーアウトし新島と宮下のために道を開けるカメラの自律的な態度。

2. 手持ちカメラが記録する「揺動」

 まず、監禁シーンの内容を確認する。2つのショットで構成されており、1つ目は鎖に繋がれた状態で座っている大槻を中心に据えた約70秒の固定ショット(図13)。大槻は悶えながら便意を訴え、トイレに行かせることを要求するが、返事はない。孤独な闇夜の中、大槻の情けない声以外に響くのは、鎖がぶつかる音と環境音だけである。2つ目は手持ちカメラで撮影された約50秒のショットで、その間、カメラは絶え間なく揺れ動いている。後者をショットBと呼ぶことにする。最初、訴え続ける大槻が内扉の外側から超ロングショットで収められている。暗さのせいで大槻の姿は黒く潰されており、かろうじて電球の光によって照らされた頭の動きが見える(図14)。しばらくするとカメラはトラックバックし、180°右にパンする(図15)。そして約1メートル前に進み(大槻から遠ざかり)、更に90°右にパンする。そこに映っているのは、毛布で自身の身体を包み込み、大槻の苦しむ声に笑いがこみ上げる宮下の姿である。大槻にそこに居ることがばれないようにするためか、宮下は笑い声を抑えている(図16)。

図13.『蛇の道』(1998年)
悶えながら便意を訴える大槻の固定ショット。

図14.『蛇の道』(1998年):ショットB
闇夜の中、白色電球に照らされている大槻の超ロングショット。

図15.『蛇の道』(1998年):ショットB
カメラはトラックバックし、右にパンし始める。

図16.『蛇の道』(1998年):ショットB
毛布に身を包んだ状態で、こみ上げる笑いを抑える宮下。

 ここで注目したいのは、宮下の嗜虐的な傾向、その恐ろしさではない。確かに、パンによって明かされる宮下の異様な姿は、観客を複雑な心境に至らせるショッキングな映像である。例え娘の復讐のためであっても、おそらく無実な人間をここまで無邪気に追い込む宮下に対して、少なからず戸惑いを覚えるからだ(もっとも宮下は大槻が犯人だと信じ込んでいるようだが)。しかし、宮下と同等あるいはそれ以上に恐ろしいのは、カメラが大槻から後ずさることそれ自体である。

 このとき、ステディカムではなく手持ちカメラで撮影されていることは無視できないのだが、映像作家・企画者の佐々木友輔による議論は、この事実を考える上で大いに役立つだろう。佐々木は「二種類の幽霊、二種類の霊媒(メディア)―― 揺動メディアとしての映画論」と題された論考で、ステディカムと手持ちカメラで撮影された(主観)映像の性質の違いについて検討している。前者が「まるでこの世のものではないような非人間的で奇妙な眼差しの印象を観る者に与える」理由について、佐々木は「その映像に『足』がないから」だと説明している。

 ここで言う「足」とは、カメラを持つ身体が地上に立つことを支えるものである。ステディカムがカメラワークのぎこちなさや映像の揺動を取り去ったとき、カメラを持つ撮影者と大地との接点たる「足」も同時にどこかへ消えてしまった。両足を上げ下げして揺れ歩く撮影者の「足」を消去した映像は、何にも支えられず、眼差しだけの存在となって宙に浮かぶ。このような身体不在の浮遊感はもちろん、ステディカムを用いた映像すべてに大なり小なり認められるものであるが、登場人物の身体が背後にあることを装っているはずの主観ショットでは、その印象は一層強調される。何者かの見ている主観的風景であるにも関わらず、その眼差しを支える身体を、何よりも「足」を欠いて漂う不穏な映像。それをひとまず「浮遊霊の映像」と呼んでみることにしよう。ここでステディカムは、映画というメディアに浮遊霊を呼び込み住まわせるための装置として機能しているのである。*3

 対して、手持ちカメラで撮影された、手ブレのある映像を「地縛霊の映像」と名付けている。

 もちろん、手持ちカメラで撮影したからと言って、それで撮影者の身体がそのまま映像に埋め込まれるわけではない。撮影が行われた時点で、カメラの後ろにあったはずの肉体は失われ、主観ショットは否応無く幽霊的な不気味さを帯び始めるだろう。けれどもその映像には、ある身体が周囲の環境と関わり合っていた痕跡が確かに残されている。[…]身体が、そこには「揺動」として刻み付けられているのだ。これらの映画においては、揺動こそが「足」の存在を保証する。そしてそれはまた、地面や強風や機動隊や恐怖が撮影者とカメラを揺り動かしたことの記録でもある。映像化されて肉体を失っても自らの死を受け入れられず、生前に関わり合った土地と共に揺動として映画に住み着く幽霊。それをここでは、浮遊霊の映像に対して「地縛霊の映像」と呼ぶことにしよう。*4

 地縛霊の映像を用いた映画を「揺動メディア」として読み解くことを提案した佐々木は、その論考の中でフェイクドキュメンタリー映画『ブレアウィッチ・プロジェクト』(1999年)を例に揺動──「人間と森[土地]の絡み合いから生じる揺動」──の分析を試みている。映画における揺動を「ノイズとして排除し、人間が演技するための『舞台』や『背景』、美的に観賞するものとして対象化された『風景』としてのみ土地を利用」する人間中心主義的な方法に、佐々木は疑問を付しているのである。

 さて、佐々木の非人間中心主義的な揺動分析とは一見逆行するが、『蛇の道』の監禁シーンにおける手ブレ映像をあえて人間に結び付けて考えてみたい。この特定の場面における揺動を、人間と土地の絡み合いの記録ではなく、カメラ自体の自律性・身体性・人間性の顕現として解釈を試みる。そして、佐々木が言うところの「地縛霊の映像」(を撮るカメラ)を「地に足付いたカメラ」と呼ぶことにする。このように、元の論に依拠しつつ大幅に読み替えているため、本稿の議論は佐々木的な「揺動分析」とは異なる点を理解されたい。*5

3. 大槻を見捨てる「地に足付いたカメラ」の恐ろしさ

 『蛇の道』におけるカメラが自律的な態度を示すことは既に言及した。ショットBもまた、カメラの自律性が強く感じ取れる映像である。ただ、今回の場合、自律性・身体性に留まらず人間性をも醸し出している。なぜそう言えるのか。

 第2節で取り上げた、新島が宮下を制止する一連の場面でドリーイン/アウトするカメラを想起されたい。このとき、カメラは台車の上に搭載されており、手ブレ=誘導は発生していない。その意味で「足」を欠いた「浮遊霊の映像」である。対して、ショットBは手持ちカメラで撮影されており、揺動が画面に現れているわけだが、理由はそれだけではない。前者とのもう一つの決定的な違いは、カメラが後退する時、単にトラックバックするのではなく、わざわざ180°パンして向きを変えているのである。前者が、直線的に前進/後退する機械的、非人間的、浮遊霊的なカメラだとするならば、人間が実際にそうするように、自然に身体を進行方向に合わせて歩く後者は、身体的、人間的な「地に足付いたカメラ」だと言えよう(図17)。

図16.『蛇の道』(1998年):ショットB
後ろを振り向き、宮下が見える位置に移動する「地に足付いたカメラ」。

 カメラを人間の目の代理と見做す、再三唱えられてきたアレゴリーを復唱することは本稿の意図ではない。その点だけを主張したいのなら、ショットBを選定する積極的理由は存在しないだろう。ショットAにおいて、カメラは宮下、新島、大槻の3人から視線を逸らさずに後退した。しかし、ショットBにおいて、カメラは大槻から視線を逸らした、断ち切ったのである。両者の性質の違いを考慮に入れると、後者に大槻を見捨てるという意思を感じ取らずにはいられない。今までも、カメラは自律性を暗に主張してきたが、カメラはあくまでも対象となる人物を追うための動き、動線に沿った移動をしていた。ところが、ショットBは位置が不変の二者、大槻と宮下を同一のショットに収めようと、カメラが能動的に移動した結果なのである。単に自律的である以上に、そして身体的である以上に、意思を有しているという意味で人間的なのである。

 誰の代理でもなく、ひとりでに動くカメラ。無機的で、物語世界内にあってはならないはずのカメラという機構が、登場人物・観客とは別個の行動原理を取ること。その戦慄する瞬間を、カメラが映像として捉えている。それは、不気味にほくそ笑む宮下の恐ろしさとは異なる位相に配置されている。観客は、この地に足付いたカメラの挙動の恐ろしさを何者かに結び付けること、還元することができないのである。自律してしまったカメラは、受動的な記録装置であることも、人間の代理であることも辞めてしまったからである。それなのに、確かに「足」があることが、映像に刻印された揺動によって示されている。

 上記の通り、掴みどころのないカメラに大槻が便意を訴えたところで、何が成し遂げられるのだろうか。カメラはただそこに居るだけで、大槻を拘束から解くことも、宮下に一時的解放を促すこともしないだろう。大槻と宮下の間に位置するカメラは媒介者ではなく、あくまでも第三者的な自律した存在であり、言葉を介さない機械である。訴え続ける大槻を見捨て、奇異な宮下に好奇心を向ける他人行儀な残酷さしか、このカメラは持ち合わせていない。大槻は、宮下とカメラの双方から応答されないという、二重の疎外感に苛まれるのだ。このようにして、監禁されている大槻の恐怖──立ち去られ無視される恐怖──が見捨てる側の視点から表現されているのである。観客には、大槻に対するカメラの残酷な仕打ちに干渉する術はなく、ただ見届けることしかできない。その異様な事態を平然と見せられていること、その事実に観客もまた恐怖し、戦慄するのだ。

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*1:カメラを移動する乗り物の先頭に取り付けて撮影する、初期映画の時代に人気を博したジャンル。

*2:逃走を試みている大槻の方ではなく、遅れた新島の方、すなわち肝心の事件が映っていない方にカメラを向けるのは、新島が逃げおおせるのか気になる観客の期待に反する所作だろう。

*3:佐々木友輔「二種類の幽霊、二種類の霊媒(メディア)―― 揺動メディアとしての映画論」BLUE ART、https://note.com/art_critique/n/n598c1eb6e87e

*4:同前。

*5:誤解のないよう付言すると、本稿は佐々木の議論にヒントを得ながらも、やや異なる問題意識から画面に映る「揺動」について分析しているため、本稿での応用法を正当なものとみなすのではなく、引用元を直接確認されたい。

頬を伝う涙——『回転』(1961年)における「無垢」の演出についての覚書

はじめに

図1. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
白昼の下で佇む女性の幽霊。

 幽霊が何もせず、ただそこに居ること・・・・・・・・・・・・──ジャック・クレイトン監督の『回転』(1961年)は、幽霊が存在すること自体の恐ろしさを最大限に引き出した先駆的作品である。ポーリン・ケイルが「今まで見た中で最も偉大な幽霊映画」と評し*1、黒沢清が影響を受けた作品として度々言及する*2このイギリスのホラー映画は、アダプテーション、ジャンル論、セクシュアリティ等の観点から盛んに論じられてきた。しかし、本稿では『回転』のとある何気ない描写を取り上げたい。問題の場面は映画の前半、少年マイルズの寝室にて展開する。新任の女性家庭教師ミス・ギデンズが、ベッドで悲しさを漏らすマイルズに励ましの言葉をかけるのだが、そのとき彼の頬を伝う涙が、見る者をはっと驚かせるのである(図2)。二人の一連の会話は、最終的には不穏な出来事をもって終了するものの、「無垢イノセンス」が不意に湧出するこの瞬間は、恐怖の場面と比肩する強烈な印象を残している。ここからは、照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集等の技法に注目し、マイルズが涙するシーンの卓抜な演出を考察する。映像の分析を通して、『回転』の美点が恐怖の演出に留まらないことを明らかにすると共に、この涙のショットの特権性を示したい。

図2. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズが涙する特権的なショット。

『回転』の概要

 具体的な議論に入る前に、『回転』の概要を簡単に確認しておく。このイギリス映画は1898年に発表された中編小説『ねじの回転』を原作としており、1950年の舞台版の脚本を元に翻案された。監督は、長編デビュー作の『年上の女』(1959年)でアカデミー賞2部門受賞した、ジャック・クレイトン。邦題の「回転」は原作から拝借しているが、映画の原題は舞台版と同じThe Innocentsであり、その名の通り「無罪」「純真」「無垢」が重要なテーマになっている。「無垢イノセンス*3が作中、どのように扱われている/描かれているかを全編通して詳述する余裕はないが、『回転』を理解する上で手掛かりになる視点だろう。
 『回転』の主人公は、デボラ・カー扮するミス・ギデンズ。ミス・ギデンズは裕福な独身中年男性(マイケル・レッドグレイヴ)に、両親がいない甥マイルズ(マーチン・ステファンズ)と姪フローラ(パメラ・フランクリン)の家庭教師として雇われ、マイルズ、フローラ、メイドのグロース夫人(メグス・ジェンキンス)が住む古い屋敷ブライハウスで生活するようになるが、マイルズとフローラの奇妙な言動や隠し事をしている様子に対して不審な思いを募らせる。ついには男女の幽霊を目撃し始めミス・ギデンズは動揺するが、他の3人は素知らぬ風である。怪奇現象の謎を解くべく、ミス・ギデンズはブライハウスについて調べ始め、マイルズとフローラは取り憑かれると思うようになる。

図3. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
主人公の女性家庭教師ミス・ギデンズ。

 本稿が分析する場面は、ミス・ギデンズが家庭教師としてブライハウスに来て間もない頃に展開する。議論の主眼は、あくまでこの場面におけるマイルズの涙をめぐる演出であり、作品全体のテーマではないことに留意されたい。次章では、マイルズが涙を流すに至る前後の描写を細かく検討する。

寝室での会話の分析:照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集

 屋敷の中。マイルズとフローラがもう寝ているはずの時間。ミス・ギデンズがマイルズの寝室の前を通り過ぎようとしたところ、中にいるマイルズに呼び止められる。ドアを開け、中に入るミス・ギデンズ。「どうして私がそこにいると分かったの」。床が軋む音とドアの隙間から漏れる光で気づいたと、マイルズがベッドの上から答える。後ろのドアを閉め、「もう寝てないといけないよ」と返すミス・ギデンズ。ここから、2分弱に及ぶロングテイク、2人の位置関係が画面の内に変化するツーショットが開始する。ミス・ギデンズはマイルズの側に行き、持っていた蠟燭を棚の上に置く(図4)。ミス・ギデンズが部屋の中の物を片付けている間も、2人は会話し続ける。夜更かしを楽しむマイルズを軽く注意した後、ミス・ギデンズは彼が学校から退学になった件を切り出す。平気な態度を取るマイルズは、どうせおじは自分と妹フローラのことなど気に掛けていないと言う。否定しようとするが言葉に詰まりがちなミス・ギデンズに対し、マイルズは続ける。「少し悲しいけどね……人が自分のために割いてくれる時間がないときって」。ミス・ギデンズは振り向きながら「私にはある」と答え、マイルズのすぐ横に移動する。同時に、カメラはこの一連のシーンにおいて最も速いスピードでミス・ギデンズを追う。画面の右手前(ミス・ギデンズ)と左奥(マイルズ)に対置されていた両者が(図5)、相対的に平面的 フラットかつ緊密タイトなフレームに収まる(図6)。2人の距離がグッと縮まった──正確にはミス・ギデンズがグッと縮めた──という心理的印象を与える演出である。

図4. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズの側の棚に蠟燭を置いたミス・ギデンズ。

図5. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
対角線に位置するミス・ギデンズとマイルズ。奥行=距離が強調されている。

図6. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
奥行=距離が縮まったミス・ギデンズとマイルズ。

 ミス・ギデンズはマイルズを真っすぐ見つめて言う。「私には時間がある。そして私はあなたのことを大事に思っている」。ミス・ギデンズの次の台詞の途中、マイルズのクロースアップ(ミス・ギデンズのPOVショット)に切り替わる(図7)。それまでのハイコントラストな映像とは対照的に、蠟燭の灯に照らされたマイルズの顔と枕の“白”が画面を横溢し、彼の「無垢イノセンス」を印象付ける。話し続けるミス・ギデンズに対して、マイルズは顔を画面左に背ける。カメラ=ミス・ギデンズに向けられたマイルズの左頬の上を涙が伝う。ミス・ギデンズが寝室に入ったときに見せていた余裕のある表情は、もうそこにはない。マイルズの名前を呼びながら、彼の涙を手で拭き取ったミス・ギデンズは、彼の顎を優しく持ち、自分の方に顔を再び向けさせる。今度はミス・ギデンズのクロースアップ(マイルズのPOVショット)に切り替わる(図8)。「私を信じて」。
 しかし、作品全体のトーンに似つかわしくない安堵のひと時は、不吉な現象によって破られる。マイルズのクロースアップに戻って間もなく、部屋に勢いよく吹き込む夜風の音が鳴る。窓は框に打ち付けられ、蠟燭の灯りは消されてしまう。唐突な出来事に動揺を見せるミス・ギデンズに対し、マイルズが「怖がらないで。ただの風の仕業だよ」と声をかけたところで、このシーンは終わる(図9)。

図7. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズのクロースアップ(ミス・ギデンズのPOVショット)。

図8. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
ミス・ギデンズのクロースアップ(マイルズのPOVショット)。

図9. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
寝室のシーンのラストショット。蠟燭が消え、真っ暗になった寝室。

涙、あるいは「無垢イノセンス」の真正性

 上記のように、寝室での会話シーンは照明ライティング俳優の動きブロッキング、編集等のテクニックを用いて、ミス・ギデンズとマイルズが心理的に接近する様子を描出している。ただし、注意しないといけないのは、最後の不穏な展開によって事態が好転する予感が打ち消されることである。実際、ミス・ギデンズはその後幽霊を目撃するようになり、マイルズに対する疑念を深めることになる。その意味で、両者の心理的接近の演出は、観客を油断させるホラー映画的な仕掛け(前振り)として機能していると言える。しかし、マイルズの涙を流すに至る描写の理解をストーリーテリングの観点に還元してしまうのは、あまりに惜しすぎる。
 原題のThe Innocentsが示す通り、「無垢イノセンス」は本作の主要なテーマであり、その象徴と見なせる涙に注目してみたい。あくまでも見なせると表現したのは、マイルズは本心から涙を流したのか、大いに疑問の余地が残るからである。“the innocents”は作中、怪しい言動をするマイルズとフローラをミス・ギデンズが形容する際に使用したフレーズである。マイルズに邪悪なところはないと擁護するグロース夫人に対し、ミス・ギデンズは言い返す。「彼が私たちを欺いているとしたら違います。彼らが私たちを欺いていたとしたら違います」。そして、グロース夫人にではなく、自分に対して言うように、“The innocents”と呟く。無垢であるはずの子供達が、無垢ではないのかもしれない──その恐ろしい可能性に今一度気づいたミス・ギデンズは戦慄する。このように、無垢という言葉はアイロニカルに使用されており、事実マイルズは完全に潔白ではないことが作中の描写で明かされる。映画の後半、マイルズによる嘘や盗みといった悪事が発覚し、ミス・ギデンズは彼を問い詰めることになる。

図10. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
“The innocents.” ──何もない空間を見つめて呟くミス・ギデンズ。

 よって、マイルズを無垢と結び付ける方が難しいとさえ言える。しかし、マイルズがミス・ギデンズを欺くために涙を流したのか否かは、涙のショットの解釈を左右する問題ではあっても、イメージとしての強度を揺るがすものではない。次章では、涙のショットがどうして寝室での会話シーンの中でも特権的なショットなのかを包括的に議論する。

視線の(不)一致、そして涙の煌めき

 前章では、寝室のシーンにおいて2人の物理的・心理的距離が変化したことを確認したが、ここでは2人の視線の(不)一致という問題系に注目したい。そのために、ミス・ギデンズとマイルズが最初に出会う場面から、涙のショットに至るまでの展開を振り返る。
 2人が直接出会うのは、列車に乗っているマイルズをミス・ギデンズとフローラが駅で迎える場面である。マイルズは列車を降りると、喜びで溢れるフローラが駆けつける。幼い兄弟はミス・ギデンズの元に走り寄る。ショット・リバースショットでマイルズとミス・ギデンズは言葉を交わすが、マイルズは年齢の割にやたら大人びている。
 駅を離れ、ブライハウスに帰る馬車に乗る3人。そこでミス・ギデンズは、学校での様子についてマイルズに尋ねる──マイルズの学校の校長から、彼が退学処分を下されたという旨の手紙がブライハウスに届いており、学校で何があったのか気になっていたのである。手紙には退学処分の理由として「彼は他の生徒にとって有害である」としか書かれていなかった。
 しかし、マイルズは何も答えず顔を背け、窓の外を見遣る(図11)。注意すべきは、フローラの「マイルズ見て!そこに湖がある」という発言は、その直前ではなく、直後になされているということである。マイルズは、フローラに促されて窓の外を見遣ったのではない。ミス・ギデンズの質問を受けて窓の外をぼんやりと眺め、フローラの発言を受けて湖に目線を合わせたのだ。つまり、マイルズはミス・ギデンズの質問、視線を意図的に拒否したのである。

図11. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
ミス・ギデンズの質問を無視して窓の外を見遣るマイルズ。

 フローラの発言に対し、マイルズは無邪気な反応を見せるが、ミス・ギデンズが話を再開すると表情が硬くなる。「学校では幸せだった?」と聞かれたマイルズはミス・ギデンズの方を振り返り、彼女に伝えたいことがあると言う。「女性家庭教師にしては美人すぎると思います」。想定とは異なる答えが返ってきたことに若干戸惑ってか、一拍してからミス・ギデンズは言い返す。「あなたはそんな噓をつくおべっか使いにしては若すぎると思います」。3人全員が笑ったところで場面が転換するが、マイルズが学校の話題を躱していることがここから分かるだろう。マイルズは、顔を背けて視線を拒否するか、視線は一致させても、表面的なやり取りで話を有耶無耶にするのである(図12)。

図12. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
マイルズと向き合っているが、肝心の質問は躱されてしまうミス・ギデンズ。

 寝室のシーンでも、視線が正当に一致しない時間が持続する。ミス・ギデンズは、常に何かをしながらマイルと会話する。お互いの視線が合うことはあっても、ミス・ギデンズの片付け作業によってその都度途切れてしまうのだ。馬車のシーンではマイルズが視線を拒否していたのに対し、今度はミス・ギデンズが視線を拒否しているように見える。おじは自分たち兄妹のことを気に掛けていないと言うマイルズを、ミス・ギデンズは否定しようとするが、ミス・ギデンズの体はマイルズの方に向いていない。一時的に向いたとしても、片付けに戻り、背中を向けるのである。ベッドの中でポジションを変えず、ミス・ギデンズから目を逸らさないマイルズに対し、ベッドの側をうろつき、マイルズと正面から向き合わないミス・ギデンズは頼りなく映る。それは、マイルズの主張──おじは自分たちを愛してくれていないという主張──を完全に否定しきれないミス・ギデンズの心境の現れだろう。

図13. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
片付け作業を「言い訳」にしているかのように、マイルズに背中を向けるミス・ギデンズ。

 そこでミス・ギデンズは、おじの愛情の存在を主張するのではなく、自身の愛情を伝えるという方法で、マイルズを安心させようとする。マイルズのすぐ横に移動し、彼を覗き込むように前のめりになったミス・ギデンズは、次のように言う。「私には時間がある。そして私はあなたのことを大事に思っている。そして学校で何か問題があったとしたら、もし私に何か伝えたいことがあったら……」。台詞の途中、マイルズは顔を画面左に背けるのだが、ミス・ギデンズは彼の顎を優しく持ち、顔の向きを正面に戻してあげる。ここで漸く、ミス・ギデンズとマイルズの視線が正当に一致する──初めて、表面的なやり取りで有耶無耶にされないアイ・コンタクトが実現したのだ。だからこそこの涙のショットは極めて特権的なのだが、最後に、涙がどのように形で画面に現れているのかを検討しなければならない。
 コマ単位で確認すると、最初のマイルズが顔を背ける前の状態だと、光の反射の関係で涙が見えにくいことが分かる(図14)。しかし、マイルズが顔を背ける動作によって、涙が明確に画面に現れるのである。涙は既に目尻から頬を伝って首筋に移動しているのだが、驚くべきことに、この涙が辿った経路、涙が描いた軌跡を伝うように、光が反射するのである(図15–16)。そして最後、完全に顔を背けた状態になって、涙の粒が煌めくのだ(図17)。ハイキー・ライティングで白く照らされるマイルズの頬とその上を伝う涙は、『回転』という誠に恐ろしい映画には似つかわしくないほど「無垢イノセント」な美しさを放っている。いや、こうした恐怖とは直接関わらない場面においても抜かりない点こそ、『回転』を傑作たらしめる所以かもしれない。

図14 ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
この時点ではマイルズの涙は見えにくい。

図15. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
目尻から数センチ先の涙で濡れている部分が露わになる。

図16. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
首筋に近い涙で濡れている部分が照らされる。

図17. ジャック・クレイトン『回転』(1961年)
涙の粒が最大の煌めきを見せる。

*1:ポーリン・ケイルの『回転』評のこの部分がよく引用されるが、引用元では幽霊の描写や俳優の演技に賛辞を贈る一方で、「『回転』は素晴らしい映画[a great film]ではないが、非常に良い映画[a very good one]ではある」という留保付きの評価を与えていることには注意されたい。ところで、本作の達成を「距離」(distance)というキーワードで記述しているのは、このレビューの見所である。なお、本稿で引用する文献および映画の台詞は拙訳になる。Pauline Kael, “‘The Innocents’, and What Passes for Experience,” Film Quarterly 15, no. 4 (1962): 21–36, https://doi.org/10.2307/1211186.

*2:以下のインタビューで、黒沢清は『回転』の映画としての達成について語っている。Diane Arnaud and Lili Hinstin, “Interview with Kiyoshi Kurosawa about His Double Feature Choices,“ trans. Eléonore Mahmoudian, Festival Entrevues, https://www.festival-entrevues.com/en/retrospectives/2014/double-feature-kiyoshi-kurosawa.

*3:議論の都合上、innocenceの意味の内「無垢」に絞って表記しているが、他の意味を捨象する意図はないことを理解されたい。